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鈴ヶ森処刑場

https://hakyubun.hatenablog.com/entry/20110213/1297557163

一部転記
一六五一年(慶安四年)に刑場が置かれてから、一八七一年(明治四年)までの二百二十年間に十万人余りの罪人が処刑されている。


使の前に跪座(きざ)せしむれば、四十歳位の検使は、懐中より奉書紙に認めたる捨札同文の断獄宣言書を出して、罪人に読み聞かしむ。この検使は、因獄主管者石出帯刀なりしや否や、当時聞くところなし。


かかる間に、他の非人は、叢(くさむら)の中に倒し置きたる磔柱を刑場の中央に引き出し、罪人に覆面し、大の字状に縛り終わり、罪人を海岸(東方)に向わしめてこれを樹つ。 


槍を取る者(即ち突手)二人、荒縄の襷を十文字に掛けて、罪人の左右に分かれ、各々槍の穂より三尺ばかり下の所を荒縄にて縛す。蓋し血の手元に流れ来るを防ぎ止むる用意なり。


一人の非人は磔柱の下に水を入れたる桶を据え、雑巾様の襤褸(ぼろ)切れを持ちて蹲(うずくまる)。
これ罪人を突きたる槍に付着せる血を一度ごとに拭い去る者なり。


かくの如く準備なり、槍を持ちたる突き手両人、罪人の右方の者は西向きに、左方の者は東向きに、各々位置を定めて、まず左右両方より、槍を出して、罪人の胸の前にて、叉字状に合して、ドンと胸を打つ。


斯くして左方の者、まず「アーリャー、リャー」と掛け声を発しながら、罪人の横腹より右の肩へ通れとばかりに突き込む。その声音の無情なる、挙動の劣悪なる、何に譬(たとえ)ん様もなし。


さてその槍を引き抜きて、磔柱下にて血を拭わしむる間に、右方の者、また「アーリャー、リャー」と掛け声を発しながら横腹より左の肩へ通れとばかりに突き込む。


その槍を引けば、左方の者また替りて突く。

鈴ヶ森刑場

高層ビルが建ち並ぶ東京・品川。
中でも、多くのビジネスマンで賑わう駅前は、どこか近代的な雰囲気が漂っている。



昔10万人以上もの罪人が処刑されたという『鈴ヶ森刑場遺跡』である。

最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。
反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。

この刑場跡に行くと無数の怨念霊が漂っています。


それもさのはず、このあたりを工事すると、1メートルも地面を掘れば人骨がたくさんでてきたそうです。


処刑された死体は埋葬などもされず、土を被わせる程度だった。
夏になると周囲に死臭が充満、さらには野犬が食い散らかして地獄のような光景が広がったという。


これだけの場所、もちろん奇妙なウワサは絶えない。


深夜に近くを通ったタクシーが女性を乗せたら、知らないうちに女性がいなくなっていたなど話しをあげていけばきりがないほどある。